揮手自茲去

もう一つの夢は心の中に。

心という器を取り扱えない君は永遠に群集の中で孤独な道化師を演じ続ける。

『まあ待て。まあ待て。話せばわかる。話せばわかるじゃないか』と犬養首相は何度も言いましたよ。若い私たちは興奮状態です。『問答いらぬ。撃て。撃て』と言ったんです。

 人が人を選ぶ時に中身を評価するまでもなく、外見という入門の段階で選択肢から弾いてしまう者が余りにも多い世の中では、言葉もまた同じ有様を持っている。つまりは人様に話を聞いて貰えなくなったら、幾ら言葉で想いを伝えようと努力しても、その物語は既にお終いなのである。過去に誰も耳を傾けない中、一人で延々と奇抜なアイデアを演説し続けていた人物を揶揄していた私であるが、気付けば私もその一人になってしまったのではないかと最近ふと考え続ける。

 誰かの心を掴もうとする前に、先ずは扉を閉めさせないこと、それを未来の教訓にしていこう。はたして一度閉ざされた門が再び開くことはあるのだろうか、少ない可能性を信じながら門を静かに軽く叩き続ける梅雨明けの森にて。

二つの魂を隔て一つに纏まり存在しなくなった国

 そんな国を舞台にした演劇を見終えて図書館へ向かった私はエリアスの「宮廷社会」と「文明化の過程」を自動化書庫から引き出すが、冷静に考えると一冊500ページぐらいの学術書を読み切る気力が今の僕には無いことに気づき、泣く泣く本が再び地に帰る為に用意された棚へ惜しみつつ彼らを安置する。

 好きな人間の体液に全く興味がわかないことは異常であると友人に言われたが、世の中そんなものなのだろうか。私の場合はそんな生々しいものよりも、其の人間が内部を世界に放出する書き言葉を始めとする諸形態から成る表現、つまりはエクリチュールに毎度強い関心を抱く。その人間が著者として世に出しているあらゆる書かれた言葉を読み尽すことで、その人が何を考え、何を思って、何を大事にして生きているのかという、その人の人生の価値観の輪郭を描いて、そして一人の人間を少しずつ理解していこうとするのが私の基本的な姿勢である。

 初恋相手が小さな作家さんだった故だろうか、私は周りが思う以上に人の残す書き言葉が今でも好きなのである。そんな私だから当然、同期の卒論を読める日を楽しみにしている。私の大学は素敵な世界を持った方々が多い、しかし中には素敵な内的世界を持っているような気はしても、世界に表現し切れていない人間も存在しており、やたらと言語表現を強いられる緑のキャンパスの下で四年間も過ごしていれば、いつぞやか成熟する日が来るのではないかと細やかながら祈り続ける。

 最後にどうでもよいが、エリザベートを見た序にエドワード8世やアナスタシア皇女のミュージカルを見に行きたい気分になった。肝心な部分で劇の感想とか書けない人間なので、色々言う僕の世界はやはり貧困に満ちている。だからこそ素敵な世界を持っている人間に惹かれてしまうのかもしれない。

コレヘトの言葉

かつてあったことは、これからもあり

かつて起こったことは、これからも起こる。

太陽の下、新しいものは何ひとつない。(1:9)

 

 

熱心に求めて知ったことは、結局、知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎないということだ。これも風を追うようなことだと悟った。

知恵が深まれば悩みも深まり

知識が増せば痛みも増す。

(1:17-18)

 

若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。

青年時代を楽しく過ごせ。

心にかなう道を、目に映るところに従って行け。

知っておくがよい

神はそれらすべてについて

お前を裁きの座に連れて行かれると。

心から悩みを去り、肉体から苦しみを除け。

若さも青春も空しい。

(11:9-10)

 

待人来ても既に遅い

 

 暫くは此の度の総括に関する話題が続きますがご容赦ください。何せ、この歳になるまで直接的に告げられるという形で体裁よく失恋したことが無かった人間なので、此の度の「初体験」はとても痛く胸中に響いている。色々と私自身の過去に書いた物語の断片を思い巡らしながら伏線を回収して、二次史料を練り上げていく作業の過程で、僕自身の反省と今後の課題を提示していくことにする。

 史学雑誌では年に一度「回顧と展望」という特集を組み、過去と未来を現在に集積させる試みを行っており、また公安調査庁も同じタイトルで年に一回活動の総括をHPにアップロードしているが、今回は未来についてあまり書けそうにもないので性質は前者よりも後者に近いものかもしれない。

 

「夢の通る道、その道はとても荒くて細く、躓き転げ落ちる者も少なくない。それなのに彼らは進み続ける。その傍ら私は踏み出せずにただ佇んで眺めていた。私は道に立つも動けず、やがて後ろの者に押されるように退けられて道を明け渡した。私はまだ彼らを眺め続ける。」

無意味な詩編 - 揮手自茲去

 

 書いた時には情事ではなく、大志を抱き続け夢に向かって突き進む若い人間達と、そうではない臆病者の私の間に生じている格差を表現しただけに過ぎなかったのだが、結果的に此の予言は、別の文脈によって再解釈され、僕の新しい教訓となってしまった。躊躇していれば瞬く間に後ろから電撃的に抜かされてしまうのである。当日に突然授業をさぼって箱根に日帰り旅行したり、何となく平壌に旅行しに行ってしまう行動力がありながら、肝心な行動力に関しては構造的な欠陥が修復されずに今日に至る。

 

私の時の流れが周りと比べて遅いのか、私の時の濃さが余りにも薄過ぎるのか、兎角物事を進める速さと、その為に時間を費やすことで生まれる濃厚な質のいずれにも劣る私に対して、あらゆる物語は何とも無慈悲である。

  若い世界は何事も早い。今回のそれも嫉妬というよりは華麗な電撃戦に対して素直に感心の念を抱いてしまった。先日、地元の子ども会の50周年式典に顔を出し、小学六年生だった十年前から大分遠くに来たなと感じたが、大人たちにとっての10年というのはついこの間の出来事のようで、周期的に行われる儀式を慣れた手つきで進めていく。

 ルーチンワークのように年に一回の育成会の総会に顔を出すようになってから私も十年目になってしまうが、本来ハレの場であるはずの儀式が日常に組み込まれている感覚が身に染みている。他人に責任を転嫁してみるとすれば、若い頃から僕は年上の方々と長く過ごし過ぎて、結果的に僕の時間の進み方は同世代と比べても大分遅いのかもしれない…、否、この度は誠に私の不徳と致す処なのです。

 

御神籤で待人来ずを引いて落ち込むよりも、待人来たると書かれた御神籤を引いて、実際にあたかも待人が来たかのような、ひと時の幻を見せられた方が後々までつらいことは言うまでもない。ちなみに今年は待人来ても遅い。純粋に時期が遅いのか、待人が来た時には手遅れなのか意味深な解釈に悩む。

昔を想い出すことは、忘れていた今を想い出すこと - 揮手自茲去

  結果としては標準的ではない解釈の方が今回は正しかったようだ。気長に待てという戦略が必ずしも良いものではないことが分かっただけでも人生の糧としては大きいものが得られたのかもしれない。

 

遥かな月よ 汝の地に降り立つ望みは叶わぬが 願わくば 汝が雲に隠れることなく 深淵に消え去ることもなく 夜空に雲と共に在り続けることを 天道の迎えが来る時まで 朧げな其の姿を歌いながら 盃を頂く無礼をお許しください

爲憐幽獨人 流光散衣襟 - 揮手自茲去

 どうやら先方は夜が明けてしまい新しい希望に満ちた朝を迎えたようなので、数々の無礼続きもそろそろ終わりにしなくてはならない。去って行ってしまったように見えたのは、先方ではなく私の方だったのかもしれないと思い始める。尤もそれは相対的な問題だが。そもそも私の勘違いから始まった喜劇だったんだ、これは…

もののあわれ

 欝々した時の「ネガティブ」な感情と、かくなる出来事の後のネガティブな感情というのは大分異なる。前者は筆も重いが、後者は何となく気持ち自体がそもそも軽くて、それでいて筆も比較的滑らかに進むのである。最初はシリーズ物の小説や漫画の最終巻を読了してしまったときに胸に感じた有終の気持ち、滅びの美、みたいなものに似たような感触が同じく胸の中に残り続けていたが、薬物常用者が離脱症状に苦しむように段々と辛みも増していく。

 時間は僕を出来事から一定の速度で限りなく現在へ引き離していく。忘れまいと事に未だしがみ付こうとして何かを必死に掴み続けている腕は、慈悲もなく動き続ける時間に引っ張られながら痛みを増し続ける。しかし人間というのは誠によく出来た機械なので、他の人間に此の度読み終えた物語の話をしていくと、文学の世界に帰ってきた辛みは再び哀愁や哀感といった感動に取って代わられる。感情もまた物理にように形を変えれば変えるほどエネルギーが減少していき、こうして段々と小さくなっていく物語はやがて、いつの日かの想い出として矮小化されてしまう。ひょっとすると消えてしまうかもしれない、それが僕にとって余りにも辛いものだったとしたら。

あの想い出は涙に流され消えてゆく、その涙を口に含むとなぜだか胸が締め付けられる。涙に満ちた其の日は未来から過去へと流れる川に流されていき、それは君と一緒に今や遠くへ離れてしまった。

 

 帰り道の小さな川沿いでズーダラ節を口ずさむ若い男性の自転車と擦れ違った。すーいすーいすーだらだっだ、すらすらすいすいすーい…

 

騙したつもりがチョイト騙された

俺がそんなにもてる訳ぁないさ

分かっちゃいるけどやめられない

- クレイジーキャッツ「ズーダラ節」

 

 

 

物語は唐突に始まり、去れども静かに終わる。

 こうして物語は静かに終わり、音を立てることなく閉じられた冊子は棚に並ぶ一つの物語となりました。本来悲しい話であるはずが、その物語を読み終えた私は何だか晴れた空を山頂から眺めるように心地が良かった。一つの時代が終わり、我等は次の段階へ移行する。それは唐突に、去れども静かに訪れる。

 

 終戦、という言葉は本来、単に戦いが終わったことだけを意味するはずなのに現代日本の文脈に照らし合わせると、それは敗戦という言葉と同義になる。その日の朝、私は一日の時差で共和党のクルーズ氏やケーシック氏が大統領選の指名争いから撤退したと報じたニュースを確認した。候補者争いは一部の例外を除いて大勢が決まると、最終的に開票結果が確定するまで戦い続ける公的な選挙と異なり、確実な勝者以外は去っていく。

  From the beginning, I’ve said that I would continue on as long as there was a viable path to victory. Tonight, I’m sorry to say it appears that path has been foreclosed. - Cruz -

「当初から勝利の可能性があるかぎり戦い続けると言ってきたが、今夜、残念ながらその道は閉ざされてしまったのは明らかだ。選挙戦から撤退する」(日本語訳はNHKより)

 紆余曲折あったものの何も聴かずに帰るのも癪なので空席がある直近のチケットを買ってみたが、シューマン交響曲第一番、これは彼が結婚した直後に書いた「春」の記憶、そして二つ目にファリャの「スペインの庭の夜」で先ほど聞いたばかりの懐かしくなってしまった音楽の雰囲気を味わうという、直前の出来事と関連付けが容易に為せる僕の為のプログラム構成かもしれないと思い始め、アンコールで「恋は魔術師」が演奏されると其れは神の仕業かのように思えた。

 ああ、私が何だか軽くなったような気がしていたのは、先ほど長きに渡り続いていた魔法が解けてしまった証であったと気づく。その形は初めから終わりまで何も変わっていないはずなのに、時には羽となり私の足を軽くさせ、時には枷となり私の心を重くした、半年間私を囚えていた不思議な呪いは一瞬で儚くなる。たった一言の言葉は心が描いた束の間の幻を解術するのに十分な力を持っていた。

 幾らかの涙はコンタクトが吸い取ってくれるが、それにも限界がある。ただ綺麗な終幕だったと思うので「もしも」を考えなければ、めでたし、めでたし、と全てを終わりにできる。男女の春が表現された音楽、恋という魔術に翻弄された人間の音楽、そのどれもが僕にとってはもはや「観客席」という奏者から隔離された外部の世界から眺める他人事であり、指や息で音楽を奏で続ける自律的な機械仕掛けの集団は限りなく遠くのものに感じられた。

  光り輝く絶対的な一つのものが失われると、今まで意識していなかった周りのものが前と変わって美しく光っているように見える。横須賀線の品川に至るトンネルと武蔵小杉の時計台は見慣れているはずなのに、かつてない程にとても綺麗だった。目に見える風景を虹色に変えるのは寧ろ術中に於ける現象と考えていたが、それまで僕の視界を照らしていたものは、僕にとって余りにも眩し過ぎた。当面僕は大人になれそうもない。

 

 

死んだ後に残る君は、僕が読み取れる限られた君。

 実は図書館の片隅には今はもうこの世に存在しない教授が生前に保有していた図書が並べられている部屋が存在する。その先生はアメリカ外交史の先生であり、特に米中関係史へ力を注がれていたことが本棚を眺めるだけで瞬時に理解できるが、アメリカや中国に関係する図書の他にもイギリス史や英文学、そして宗教に関する本が多く存在しており、アメリカを軸に色々な物事に通じていたことが感じ取れる。そして学問のみならず中にはドストエフスキーの全集なども寂しく佇んでおり、生前の人物の隠れた一面を少し垣間見たような気分になる。そして視野には入らないソファーの裏に隠れた棚に眠っている黒い背表紙を取り出してみると1954年版と表紙に書かれた口語訳聖書が姿を現した。本学の教授であったということは、彼がクリスチャンであったことを意味しており、今も何処かで復活の日を待ちながら眠り続けているのかもしれない。その彼が眠る前に信仰の中心としていたのが聖書であり、それがソファーの背後という隠れて見えない場所でひっそり過ごしていることを思えば少し悲しい気持ちになる。別に聖書は生きている訳ではないものの、一番大事だったものは実のところ案外目立たないところにある、という普遍的な意味を持ち得る言い伝えを思い出す。

僕にとって大切なものは気づかなかっただけで、僕のすぐそばにあったんだね。僕はそれに気づかず、あの場所から離れてしまった日のことを後悔している。