揮手自茲去

もう一つの夢は心の中に。

不可逆的に失われた時を求めて

 植物人間を不可逆的に意識を失った人間と表現している本に出会い、単なる厳密な定義的表現に過ぎないとは分かっていても、私の心に響くレトリックを感じてしまう。例えば発達障害を持った人々が自らを非定型と呼び、そうではない人々を指して定型発達と呼ぶような、漢語を用いた硬い表現ではあるものの、どことなくユーモアを誘う言葉の選び方に似たような趣を感じる。

 シリアに行こうとして私戦予備罪で事情聴取を受けた某氏とその界隈のツイートを読んでいて、彼らは硬い言葉を非常に上手く文学的に使う人間達だなという感情を常に持つ。事故により不可逆的に失われた人間、死の表現については他に妥当なものがありそうだ。過ちによって不可逆的に失った関係、僕の人生という物語の章立てに於いて或る章の頭で主題を飾るのは大体(隠語などではなく純粋に)出会いという人間関係の始まりであり、終わりは言葉の意味通り其の終わりである。度重なる粗相により不可逆的に失われた他者の好意、ウッ頭が…安らかに眠ります。

 

 最近また漢語を多用するようになっている。大和言葉をすらすら使える人間によく憧れ、私もそうなろうと時たま母語の自己改革を試みることがあるものの、あまり長続きしない。たぶん柔らかめの語彙が私には少ないのだろう。そういえば翻訳文学を読む機会は増えたものの、純文学をずっと読んでいないことに気付いた。

 昔に友人が、若い頃から岩波文庫ばかり読んでいたら自分の言葉が翻訳体になってしまったと嘆いていたが、私が岩波文庫などを読み始めるのは日本語が大体完成してしまった大学入学後のことである。だからといってそれ以前に熱心に国文学を読んでいたような人間でもなく、インターネットの掲示板やTwitterといったSNSに張り付く日々であった。

 更には中高生の頃に私は一つの国家を代表して外交を行う摸擬国連のようなTRPGを行う界隈に属しており、そこでは「国際会議場」なる掲示板で「外交文書」が日常的に遣り取りされる世界であった。それだけならまだ良いものの、参加者は年上の方々が多く、必然的に先人たちの、それこそ実際に政治に関わっていたり院生だったり公務員をやっているような人々が書いた文章を読んで真似て育ってしまったので、当然語彙は硬い言葉か、さもなくばSNSで培われた世間一般の単純な語彙で構成されることになる。日々後付けされる言葉も自身の読書傾向を考えるとやはり硬いものしかないし、これからもその傾向は続くだろう。

 夏目や芥川、三島といった古典的な純文学を読んだ経験の差ならまだしも、同時代に出回っている小説を読んでいないのは、流石にこればかりは文化資本や育ち云々を言い訳にするのは難しそうだ。なぜなら中学や高校の図書館で普通に置いてあるし、前提知識といった教養も必要なく普通に読めるのだから(当たり前だが岩波新書なんかよりも比べるまでもなく読み易い)。綿矢りさの本は幾らか積んであるので、そのうち消化しようと思うだけ思ってみる。

 

 そういえば些細なことでGoogle+やapp.netといったマイナーSNSに登録していたことを思い出して、放置していたアカウント達を供養したが、この時まですっかり存在を忘れ去っていた。一時期はTwitterFacebookは間もなくオワコンになると言われていたのに、少なくとも私の周りでは健在である。しかし私より少し上の世代はmixiで未だに元気にしていたりするので、仮に新しいSNSに移行が始まっていても、現世代の私がその実感を抱くのには時差があるのかもしれない。

 若者はどんどんFacebookからInstagramに移っているとトロントの友人に言われても所詮は北米の現象に過ぎないと思っていたが、確かに写真アップロードはTwitterFacebookからは減ってきた?中高生の頃はIT事情の最先端にいた自信があったが、先日ようやくiPhoneフリック入力に切り替えて早速適応に苦戦しているなど、気づけば応用情報技術者などという国家資格を持っている私も老害、というより形骸化したIT人材となっており、日増しに情報格差の下側に置かれつつある。