揮手自茲去

もう一つの夢は心の中に。

待人来ても既に遅い

 

 暫くは此の度の総括に関する話題が続きますがご容赦ください。何せ、この歳になるまで直接的に告げられるという形で体裁よく失恋したことが無かった人間なので、此の度の「初体験」はとても痛く胸中に響いている。色々と私自身の過去に書いた物語の断片を思い巡らしながら伏線を回収して、二次史料を練り上げていく作業の過程で、僕自身の反省と今後の課題を提示していくことにする。

 史学雑誌では年に一度「回顧と展望」という特集を組み、過去と未来を現在に集積させる試みを行っており、また公安調査庁も同じタイトルで年に一回活動の総括をHPにアップロードしているが、今回は未来についてあまり書けそうにもないので性質は前者よりも後者に近いものかもしれない。

 

「夢の通る道、その道はとても荒くて細く、躓き転げ落ちる者も少なくない。それなのに彼らは進み続ける。その傍ら私は踏み出せずにただ佇んで眺めていた。私は道に立つも動けず、やがて後ろの者に押されるように退けられて道を明け渡した。私はまだ彼らを眺め続ける。」

無意味な詩編 - 揮手自茲去

 

 書いた時には情事ではなく、大志を抱き続け夢に向かって突き進む若い人間達と、そうではない臆病者の私の間に生じている格差を表現しただけに過ぎなかったのだが、結果的に此の予言は、別の文脈によって再解釈され、僕の新しい教訓となってしまった。躊躇していれば瞬く間に後ろから電撃的に抜かされてしまうのである。当日に突然授業をさぼって箱根に日帰り旅行したり、何となく平壌に旅行しに行ってしまう行動力がありながら、肝心な行動力に関しては構造的な欠陥が修復されずに今日に至る。

 

私の時の流れが周りと比べて遅いのか、私の時の濃さが余りにも薄過ぎるのか、兎角物事を進める速さと、その為に時間を費やすことで生まれる濃厚な質のいずれにも劣る私に対して、あらゆる物語は何とも無慈悲である。

  若い世界は何事も早い。今回のそれも嫉妬というよりは華麗な電撃戦に対して素直に感心の念を抱いてしまった。先日、地元の子ども会の50周年式典に顔を出し、小学六年生だった十年前から大分遠くに来たなと感じたが、大人たちにとっての10年というのはついこの間の出来事のようで、周期的に行われる儀式を慣れた手つきで進めていく。

 ルーチンワークのように年に一回の育成会の総会に顔を出すようになってから私も十年目になってしまうが、本来ハレの場であるはずの儀式が日常に組み込まれている感覚が身に染みている。他人に責任を転嫁してみるとすれば、若い頃から僕は年上の方々と長く過ごし過ぎて、結果的に僕の時間の進み方は同世代と比べても大分遅いのかもしれない…、否、この度は誠に私の不徳と致す処なのです。

 

御神籤で待人来ずを引いて落ち込むよりも、待人来たると書かれた御神籤を引いて、実際にあたかも待人が来たかのような、ひと時の幻を見せられた方が後々までつらいことは言うまでもない。ちなみに今年は待人来ても遅い。純粋に時期が遅いのか、待人が来た時には手遅れなのか意味深な解釈に悩む。

昔を想い出すことは、忘れていた今を想い出すこと - 揮手自茲去

  結果としては標準的ではない解釈の方が今回は正しかったようだ。気長に待てという戦略が必ずしも良いものではないことが分かっただけでも人生の糧としては大きいものが得られたのかもしれない。

 

遥かな月よ 汝の地に降り立つ望みは叶わぬが 願わくば 汝が雲に隠れることなく 深淵に消え去ることもなく 夜空に雲と共に在り続けることを 天道の迎えが来る時まで 朧げな其の姿を歌いながら 盃を頂く無礼をお許しください

爲憐幽獨人 流光散衣襟 - 揮手自茲去

 どうやら先方は夜が明けてしまい新しい希望に満ちた朝を迎えたようなので、数々の無礼続きもそろそろ終わりにしなくてはならない。去って行ってしまったように見えたのは、先方ではなく私の方だったのかもしれないと思い始める。尤もそれは相対的な問題だが。そもそも私の勘違いから始まった喜劇だったんだ、これは…