揮手自茲去

もう一つの夢は心の中に。

ブルデュー「遺産相続者たち」に関するメモ

未完:起き次第、メモの内容を書きます。暫定的に引用だけ。

エキゾチック傾向

自己の適性や能力について大きな自信を持っている彼らは、文化的関心が多様なせいで、現実の、あるいは見せかけの折衷主義や、多少なりとも実りのあるディレッタント精神を示すが、他の学生たちは<大学>により強く依存する傾向がある。社会学専攻の学生に、自国の社会、第三世界諸国、あるいは民族学のいずれを研究したいかと尋ねてみると出身階層の高い学生ほど「エキゾチック」なテーマやフィールドを選択する傾向が強い。同様に、最も恵まれた学生たちが流行の思想に惹きつけられるのは、彼らがその時点までずっと保護されてきたせいで、現実原則よりも快楽原則に従うことを望む素地を与えられており、知的異国趣味や明白な熱意が、ブルジョワ的経験を言葉に出すことでそれを精算するための象徴的な手段、すなわち見せびらかしにはなるが重大な結果はもたらさない手段となっているからではあるまいか?そしてこうした知的メカニズムが形成されるためには、自由で無償の選択ができるような経済的・社会的条件が、それも極めて長期にわたって、与えられることが必要なのではあるまいか?

経験と学習の順番

すべての教育、とりわけ文化教育(自然科学でさえも)は、教養ある階級の世襲財産を構成する一群の知識、ノウハウ、そして特に表現法を、暗黙のうちに前提としている。不穏当な部分を除去した当たり障りのない教育である古典中等教育は、父親の蔵書によって奨励され権威づけられる読書、自分では選ぶ必要のない選り抜かれた演劇や映画、文化的巡礼の形をとる旅行、すでに事に通じている人々にしか通じない仄めかしの会話など、第一段階のさまざまな経験から成る宝庫全体を既得物として前提した上で、第二段階の意味を伝達するのだ。そこからは普遍性という価値観で覆われているがゆえに万人が参加しなければならない、あの特権者たちのゲームにおける根本的な不平等が結果として生じるのではあるまいか?
恵まれていない階級の子弟が、学校による勉強の手ほどきを小手先の方便や教師用言説を身につけるための学習作業としてとらえることが多いのは、まさに彼らにとっては直接的経験よりも、学問的省察が先行しなければならないからではないのか?彼らは自分の居住地域を離れずにパルテノン神殿の建築様式を詳細に学習しなければならないし、勉学期間の全体を通じてずっと、変わらぬ強いられた不誠実さをもって、わけのわからないことがら、古典における情念の婉曲表現、良い趣味の限りなくこまごまとしたニュアンスなどについて論じなければならない。

勉強とは

勉強することは、創造することではなく、自分を創ることである。それは文化を創造することではなく、いわんや新しい文化を創造することでもなく、最善の場合でも文化の創造者として、大半の場合には他人によって作られた文化に精通している利用者もしくは伝達者として、つまり教師や専門家として、自分を創ることである。より一般的には、勉強することは生産することではなく、何かを生産できるものとして自分を生産することなのである。