揮手自茲去

もう一つの夢は心の中に。

昔を想い出すことは、忘れていた今を想い出すこと

「夢をもう一度主題化することによって、人間的な何かを忘却のなかから想い出すよすがにしてみたいというにすぎない。昔を想い出すことが忘れていた今を想い出すことであるような、そういう想い出しかたがありそうな気がする。」西郷 信綱「古代人と夢」

 失恋すると未だに縁を切られてしまった初恋の相手や其の人の言葉をフラッシュバックのように想い出す。これも所詮は片想いのまま終わってしまった束の間の恋だったので積もる内容は特に無い。ただ私が引き起こした一連の粗相を謝罪した時、相手からの応答、つまりは最期の会話で何かを言われたが、緊張の余り私は何も聞き取ることができなかった、ドーナツ屋に於いて。それが原因なのか自覚は無いが、先日6年ぶりに訪れるまで、かのドーナツ店に行くことがなかった。

 

 御神籤で待人来ずを引いて落ち込むよりも、待人来たると書かれた御神籤を引いて、実際にあたかも待人が来たかのような、ひと時の幻を見せられた方が後々までつらいことは言うまでもない。ちなみに今年は待人来ても遅い。純粋に時期が遅いのか、待人が来た時には手遅れなのか意味深な解釈に悩む。

 待人というのは突然降ってくるものではなく、御神籤を引いた時に、つまりは年初に想っていた人を意味するという話も耳にするが、私は一目惚れもよくするし、意識の外から突然やってくる待人も歓迎したい。いや、今度こそ未練に囚われず歓迎しなくてはいけないのだと。年初に想っていた人にしがみついていたら、せっかく近くに来てくれた人をまた杜撰に扱ってしまうかもしれない。今想っている待人は、まだ余り私が意識していなかった時に現れ、向こうから一瞬だけ近くに来てくれたが、私の心変わりとすれ違うように、遥か遠くに去ってしまった。彗星の如く夜空の向こうへ消えていき、私が生きている間に帰ってくることは恐らく無いのだろう。

 当事者は読んでいないと思うので、私の主観に基づいて色々と美化しながら回想することを許し願いたい。先方が積極的な時に、私は叶わぬ望みを抱き続けて先方を粗雑に扱ってしまい、いざ私が自身の心に気付いてパラダイムシフトした時には、先方から秋の紅は消え、雪の季節に入ってしまった。そこで私は試行錯誤の名の下に様々な粗相をしでかし、遂には不可逆的な関係の終わりが訪れる。罪の結果は死であると古典は語り、言葉の通り物語は私の罪の報いを受けて死んでしまった。次に先方の心に花や芽が咲いても、それはもはや私に向けられたものではないのだろう、私に向けられていたものは私自身の手で枯らしてしまったのだから。祭りの後に私が為すべきことは一時でも夢を与えてくれたことに感謝し、期待を裏切ってしまったことを謝るに尽きる。だからといってあの季節に戻れるわけでは決してないが、よくよく考えれば世の中には可逆的ではないことの方が多いのであるから、未来の私よ、どうか冷静に。

 

 一つの物語は終わり、次の物語が始まる。そうすると次の物語が段々と私の中に入っていく。昔は無意識に想い出していた人たちも、境目とは突然訪れ過ぎ去るもので、気付けば意識しないと思い出せなくなり、やがては自然に忘れ去っていく。悲しいことではあるが、深いところに沈めて忘れ去らないと次の段階には進めないのである。私は想い出という枷に弱い生き物だから、もう暫く引きずり続けるのだろう。

 一つの時代が終わり、我等は次の段階へ移行する。否、移行しなければならない。