言語と国家
半年以上も前に書いた文章をずっと寝かせたままだったので、題意は覚えていないが形にして投稿してみる…
詩歌を始めとする国文学を読んだ後には必ずかく思う、日本語は美しいと、日本語は今日まで生きることに成功した言葉である。この世界では多くの言葉が生まれ、そして滅びていった。何故生き残ったか、それは別に美しいから、便利だからという可視的(可聴的?)な要因ではなく、その言葉を保有した国家や民族が賢明な岐路を選び続けて生存できたということに過ぎない。
尤も何かを決定すべく思考するのには、やはり言語が必要であり、彼らが正しい選択を取るように彼らの言葉が聖霊の如く働きかけた・・・という可能性は否定できないが、優劣を決める要因として考えるのは聊か難しいだろう。別に母語が世界で一番素晴らしいという信仰を持つこと自体は悪いことではない。言葉というのは我々のアイデンティティ形成にとってセクシャリティの次ぐらいに大事なものである。しかしそれがイデオロギーとなって政治や国民生活に介入してくる、というのであれば話は変わってしまう。
その最もたるものが英語の早期教育には反対で、その時間で国語教育をより拡充させよ、英語を学ぶ前にまずは国語の基礎を固めよという国語至上主義的な意見であり、このイデオロギーは何時の時代の日本だかは存じないが、とかく祖国を愛して止まない保守派は勿論、経済格差の根源として英語、つまりはアメリカ的なるものを憎悪する反グローバリズム系の左派にも幅広く普及している大同的な概念である。
国語教育というと、最近の若者は詩の暗誦をしていないのか、演説が上手くなる秘訣は古人の美しい日本語を暗誦することであると仰り、島崎藤村の初恋を諳んじ始めた元議員の講演をふと思い出す。私はいろは歌ぐらいしか暗記している文章は無いので、恐らくこれが私の言葉に於ける貧困の原因であろう。
尤も詩を直接覚えるという試みは殆どしてこなかったももの、合唱活動を今日まで続けているため、何かを歌う関係で詞をある程度は暗記しており、実のところ唱歌を経由して幾らかは利用可能な言葉の資源を心の中に蓄えているような気がする。そういえば、いろは歌を覚えた切っ掛けもNHK教育放送で放送されていた番組に出てきた歌であった。
何も直接文章を暗記しなくても、言葉を用いる芸術活動を通じて語彙を豊かにしていくことは可能である。そう考えれば、演劇人が自ずと多くの言葉を持っていることについて色々と合点がいく。イギリスか何処か忘れてしまったが、その国の国語教育では演劇というものを積極的に取り入れており、国語の成績が良くないとクラスの舞台に載せて貰えないので皆が頑張る、という話を読んだことがある。
自分自身の言葉で物を書けと学術的な訓練を受ける際に必ず言われるが、言い換えをする際に自身が保有する語彙が少なければ大分苦労するだろう。特に外国語なら猶更である。そこで暗記という集中強化訓練で一気に増やしていく必要が偶に生じる。多読で蓄えるという手法に関しては当方積読に塗れた有様であり、多読とは程遠い実態であるため言及する術を持たない。
英文ライティング能力を高める為に英文を暗記するという勉強法は有名であり、まさに今実践しているところであるが、どうしてこれが日本語に応用できないだろうか。語学ならともかく国語で今更、年々衰えつつある暗記能力を行使する動機を沸かすのが大変なのだろう。10代の私は大学時代に四書五経を暗記する等と教養主義染みた法螺を吹いていたが、現実に於いては彼の書に触れてすらいない。今はせめて岩波の名詩選ぐらいは読もうと思っているが、これも恐らく未遂に終わることだろう。
さて、何を書こうとしていたのだろうか。想った直後に書くと私は聊か攻撃的な文章を書いてしまう。そういうことで最近では殴り書きはするものの、すぐには公開せず寝かせたりしている。そして数日後に続きを書こうとすると、何を書こうとしていたのかすら綺麗さっぱり忘れてしまっている。
感情というのは気まぐれだ。発作なのか衝動なのか、物書きとしては素人であるゆえに、創作というものは感情というエンジンの気まぐれで突如として生産されたり、途中で突然止まったり、挙句には忘れ去られて朽ち果てたりする。
タイトルに注目しよう。私は言語ナショナリズムについて書きたかったらしい。しかし、それにしては長い長い導入であった。
国語をしっかり修めよと言う集団が多々存在するという話をした。思考の源泉である国語を育むことは重要である、うむ、その通りである。しかし、その二つはトレードオフ、いずれかを犠牲にしなくてはならない天秤の関係なのだろうか。
私が懸念していることは、日本語の美徳の名の下に英語を学ぶ機会を公教育から奪うことは、英語学校へ日常的に通えない富裕ではない人々の、本来なら果てしない情報の海へのアクセスを制限する一種の金盾、中国大陸で使われているネット検閲体制の如き効果を日本国民に与えるのではないかと考えている。
尤も本学の学生は基本的に国民平均と比べて英語に堪能な人々が多いので実感を持たせるのは難しいかもしれないが、先日まで単語を複数形にする際に語末のfがvに変わるというようなことを知らなかった私のような人間でも国民全体の英語力の中では平均を上回ってしまうと言えば少しは事態を理解してくれるだろうか。
言語ナショナリズムによる世界公用語としての英語教育軽視は、公教育以外の教育機会に恵まれない多くの者が、日本の枠組みの外部、日本の内側にいると認識できない客観的な、外から見た日本が閲覧できる、日本的なものに制限されない英語リソースへアクセスすることを阻害し、英才教育を行える富裕層と公教育に頼らざるを得ない貧困層という二つの階級から見える世界の大きさが変わってしまい、それが社会階級間に於ける情報格差をもたらし、更なる格差を生み出していく。これは社会階級の再生産を固定化させる貴族主義復活の策動に他ならない。
国語は美しい、だから英語など早くから勉強させなくてよい、そのような貴族の夢や美学が国民が知る権利を行使する際の能力涵養の意義に上回ると考えているなら、余りにも現実離れした虚しい言説に聞こえる。エリート以外は完全な英語を学ぶ必要は無いと心の底で思っていないことを願う。大学のグローバル化に反対する際にも日本語の大切さを説かれる。しかし、それは自己変革を避ける言訳として使われることが多いので悲しい。排外に走る言語ナショナリズムは人的資源の可能性を縮小させる極めて反文明的な思想である。
他に言語ナショナリズムが強い地域といえばラテン語を起源とした諸言語、フランス語、ルーマニア語などにもその傾向がみられる。フランス語のそれに関しては既知だと思われるので割愛するが、ルーマニア、モルドバあたりの楽曲を調べてみると、こんなものがあったので、これで閉めさせていただく。みんな自分の言語が愛おしいものである。
私達の言語は過去の深い影から押し寄せる宝であり、
私達の古い土地全体に渡って撒き散らされた宝石の鎖である。私達の言語は警戒のない死のような眠りから、
物語の勇敢な男のように目覚める人々の
真ん中の燃える炎だ。私達の言語は私達の魂のもっとも深い
願望からの歌で作られているものだ、
暗い雲と青い地平線を速やかに貫く光の閃きだ。私達の言語は風が夏を通して吹くときのパンの言語だ、
労働を通して国を祝福した私達の父祖たちによって発せられた。私達の言語は永遠の森の最も緑の葉だ、
穏やかなるニストル川は明るく星明りを隠しながらさざなみを立てる。今はあなたの言語は貧しすぎるから
苦い叫び声をこれ以上発するな、
そうすれがあなたはなんという豊富で貴重な
国の言葉を流れるのを見るだろう。私達の言語は伝説、古い日々からの物語で満ちている、
1つそして1つと読むことは人を身震いさせ、
戦慄かさせ、呻かせる。私達の言語は称賛を天に上げる為に選りすぐられ、
合図を決して止めない真実を不断の熱情で発しながら。私達の言語は神聖以上だ、
私達の民族の家屋敷で
永久に涙を流して歌われる古い説教の言葉だ。過ぎ去った年を通して錆たこの私達の言語を
今復活させよ、
私達の土地中で忘れられた時に集まった
汚物と黴を拭い取れ。太陽からの明るい光を捕らえながら、
きらめく石を今は集めよ。
あなたは溢れる新しい言葉の終わりの無い氾濫を見るだろう。
宝が過去の古い影から速やかに湧き出るだろう、
私達の古い土地全体に渡って撒き散らされた宝石の鎖。モルドバ国歌「我が言語」より(訳出サイト消失によりURL掲載不可)
次に「恋のマイアヒ」で有名なO-Zoneもこんなものを歌っている。
もしもいつの日にか
歪んだ運命に打ちのめされることがあるならば
一生を沈黙で過ごしたほうがいい
俺たちの言語を失うぐらいなら
他の言葉なんて喋らないでくれ
窓の下から叫ばないでくれ
俺の気持ちはもう変わらない
俺は俺たちの言葉を捨てはしないこの騒がしい世の中に
人の息吹がある限り
常に尊く美しく
俺達の言葉は生きてるんだ
消え去ることがないように定められた
その気高く素晴らしい発音で
いつも太陽の下で
俺達の言葉が歌のように響き渡るこの青空の下の俺の意志を
悪党どもに知らせてやろう
俺は俺たちの言葉を捨てはしない
俺達のルーマニア語を捨てはしない。「俺達の言語は手放さない」