揮手自茲去

もう一つの夢は心の中に。

政治家と舞台

一生を終えた後に残るものは、私たちが積み上げたものではなく、私たちが与えたものである。

(Gérard Chaudry)

人生もまた物語のように、如何に長くではなく、如何に良きことか、というのが大事である。

(Seneca)

 政治家というのは舞台で喩えるなら俳優であると誰しもが考えるかもしれないが、私はひょっとすると、彼らは舞台に立っているように見えるだけで実は「国家」という舞台を支える裏方なのではないかと思っている。政治家は国家なる舞台がミサイルで壊されないように守ったり、老朽化した箇所を修復したり、複雑化する情報の管理などを行う存在である。

 尤も実際に現場でそれらを担うのは一般の公務員であり、彼らもまた裏方の一員として、国家を支えている。政治家は責任者=監督のような位置で良いのかも知れない(それにしては数が多い気がするものの)。彼らは総じて公僕と呼ばれるが、彼らがいなくては国という舞台が崩壊してしまうので重要な役目である。

 政治家は更に必要とあらば、政策という舞台装置を設置していく。貧困に苦しむ人々のために教育や福祉という照明を与え、彼らを照らし輝かせたり、補助金政策によって農夫や芸術家を助成することもある。時代が進めば使える技術も増えていき舞台は複雑化する。

 科学者の研究活動を支援するためにも政治家は新たな装置を作る。特に宇宙開発といった分野では政策という舞台装置なしには何もすることができない。また高度情報社会の中でも国家が仕組みを整えなければ混乱が生じてしまう、というのも国の形態の一つである自由主義社会は外部に開かれており、民間という有志の参入が気軽に行えるからだ(中には免許制度等の制限があるものの)。

 多くの舞台装置を維持するには費用がかかる。国家という舞台は国民の出資により維持されているわけだが、収入が減少していくなかで最近の流行りは、不要な装置を排除していく運動がある。しかしながら高度に構築された舞台が更地になっては何も成り立たないように、ゼロを目指して収束していく運動には限界があり、いつかは止まり、本当に必要な装置は残り続けたり、後の時代に復活する。

 そして誰が俳優であるか、と言われれば間違いなく国民であろう。そういう意味で政治家も俳優の一員ではあるのだが、政治家ゆえに俳優という論理ではないことが重要である。この国は決して「選良」だけのものではないのだから。中には自分が絶対的な主役かの如く、権威、名誉それから権力を集めることに専念する政治家もいるが、それを「正統」だとは思いたくないだろう。

 国民はまた観客でもある。公僕と呼ばれる人々が支える国家という舞台で、国民は輝き、その姿をまた国民は見て幸福を得れば、素晴らしき空間が完成するのである。尤もこれは理想であり、現実はこれからであるのだが・・・

 

 未熟な文章に未熟なアナロジーが重なった為、自分の考えを表現できたか怪しいところではあるが、論文執筆経験と文学的素養を高めないことには解決できないのだろう。