揮手自茲去

もう一つの夢は心の中に。

私的な宗教と公的な道徳が交る時

 脱宗教的な道徳教育が実現し得るか、と言われると私はそれに懐疑的な立場である。なぜなら道徳教育を熱心に推進する議員の多くは支持基盤に何らかの宗教団体が存在しており、宗教団体は彼らを支持することによって、今後形成されていく新しい道徳教育の中に教団の価値観を含意させることを試みる。道徳を強く訴える政治家の多くは結局のところ支援者の代弁を司る代表者に過ぎない。

 尤も道徳教育の強化を恐れる人々が抱く一番の懸念であろう国家神道なるものを軸とした戦前教育の復活に関してはそこまで不安になる必要もないだろう。それを本望とする神社本庁は確かに組織力があり、戦前との連続性もあることから余計巨大に見える。しかし神社本庁の基盤である神社そのものは衰退しつつあり、神社を中心とした嘗ての共同体が崩壊していく中で、今では保たれている組織力も、やがて衰弱していくことは避けられない。

 残酷なことに政治家は票田とならない組織に対しては、切り捨てないまでも優先度を下げてしまう、動員力の減った町内会、農業従事者の減った農協、地方選では今でも重宝されるものの、今日の政権運営を見れば自明の通り、国政ではもはや重要ではない。

 嘗ての日本宗教の覇者であった国家・神社神道が衰退していく中で、これに代わり次のヘゲモニーを狙っていくのが、所謂新興宗教団体である。日本の新興宗教は総じて近代の産物ゆえか組織宗教的である。依然として組織を保つ彼らは、町内会、神社、職域団体に代わる某保守政党の要となり、現に彼らが糾合した日本会議を始めとする保守主義団体の存在が政界のファクターとして認知されつつある。

 しかしながら覇者となる宗教は今のところ、まだ決定していない。強いて言うならば日蓮系の在家教団である創価学会がリードしているともいえるが、それに対する勢力も団結する形で勢力を保持している。それゆえに各教団は今後も来たる勝利の日まで信徒拡大を続ける必要がある。

 幸いなことに嘗ての共同体が次々と崩壊していく中で、精神の依代を求める人々の受け入れ先として、何もしなくても宗教団体に対する需要が絶えることはないであろうが、多く存在する教団の中で選択して頂くには、公教育を通じて多くの国民の価値観と自らを近づけることにより抵抗感を取り払う方が手っ取り早いことは言うまでもない。

 今後日本で形成されていく道徳教育には絶対的な一教団の教義が反映されることはないにせよ、多くの宗教団体が争って教団の理念を公教育に根付けるべく、政治を通じた静かな宗教戦争を続けていくのだろう。昭和の時代にはあった暴力を通じた宗教抗争よりは平和であるかもしれないが、見えないところで戦い続けている、というのも奇妙なものだ。