揮手自茲去

もう一つの夢は心の中に。

政治的価値観

ここで分野に偏重があるが、私の政治に関する価値観を記録しておこう。(2015年6月9日現在)

 生存権を国家が完全に保障していることを前提に、小さな政府・規制緩和を志向する新自由主義には反対しない。伝統主義により蔓延った国家発展の枷を外す存在、欧米的な社会保障を削るための小さな政府ではなく、あくまで規制緩和構造改革のためのネオリベラリズムがこの時代に求められていることを否定しない。

 しかしながら科学政策はともかく、効率性の犠牲になりがちである文化政策学術政策に関しては民間が成熟するまで国が積極的に保護拡充する姿勢で関与する必要がある。経済に還元し難い人文系を切り捨て、科学技術に投資すれば確かに目に見える効果はあるだろうが、この国の哲学、思想、歴史を探究する者達を切り捨てた場合、我々は積み重ねられてきた知を失うことになる。

 人間は今も過去も多くの過ちを繰り返している。同じことを繰り返さないために分析し、原因を究明し、それを保存する。彼らは村の長老の如き存在を担っているのであり、我々は過ちを減らしていくために、彼らを保護しなくてはならない。倫理や道徳は知恵の積み重ねによって成長していき、それを忘れた文明は人間の暴走によって崩壊していくだろう。

 そんな大げさな、国公立大学において減らすだけであるという声もあるだろうが、米国のように、すぐにお金にならない学者たちを養えるほどの莫大な基金を有する私立大学が我が国に殆ど存在しない以上、学術に於いて競争的資金をぶら下げ積極的な競争を促す行為は、競争に向いている学者を集めたい大学によって追い出された競争に向いてない分野の学者の頭脳流出を招くだけであり、我が国の総合的な学術の発展にはつながらない。

 そもそも我が国は学術・科学に関する資金を削る、集中する必要性が迫っているほど莫大なものではなく、むしろ先進国の中ではかなりの貧困の部類である。なお科学の基礎研究や宇宙に関して資金を投資することには大賛成である。これらも中々、すぐにお金には変わらない分野ゆえに。国は経済性が重視される社会では生き残れないが、国家に必要ではある分野の人々を保護していく役割を担うべきである。競争の弱者をしっかり保護するなら、先述の新自由主義に対する考えの如く、競争的資金を振り回してイノベーションを煽る行為そのものは容認する。(私は文科省を科学省、教育省、文化省に分割したい人間である)

 教育に関していえば、権限の殆どを地方、それどころか各学校に委ねるべきであると考える(公立学校の独法化に賛成)。各学校でカリキュラムも人事も行い、人件費は国が給付する。学校が腐敗したら、変な教育を始めたらどうするのか、という意見もあるだろうが、学校の民主的統制に関しては同窓会、保護者会、生徒会等が行う方が良いだろう。政治家があんまり教育を振り回すのも好ましくはないが、私は学校を外からのメスを受け付けなくてもよい「聖域」であるとは考えていない。どちらが優先されるかと言うと、日本の教育について色々言われ続けている訳でありますから、やはり変わる必要性はあると思うので、政治家に代わる民主的統制者が現状として存在しない以上、暫くは政治が教育政策を決定するのも仕方あるまい。

 学校の民主化が完了したら国家は全く教育に関わるな、というわけでもない。日本の民間では難しいエリート教育や芸術教育を担う教育機関や一種の教育的実験場の必要性から、国立大学、附属学校を民営化せよという立場には与しない。

 だんだん政策集になってきてしまったので、簡潔に価値観だけ述べることとしよう(実はプレゼン準備の逃避行動であり、そろそろ現実に目を向けなければならない)

人権に関する前時代の遺物である社会的不公正に関しては、適性化されるまでの積極的措置に賛同する。たとえば女性政策に関しては、男女は同程度の能力であるという前提を認めたうえで、それとずれている現実の原因が文化であると推定される場合、それを強制的に再形成することによって修正する行為と強調する必要がある。

 最後に、どんなに効率的であろうと独裁を招く行為は認められず、民主主義の徹底は不可欠である。たとえどんなに賢明なる独裁政府であっても、代を重ねていけば腐敗する。民主主義でも腐敗は無くならないが、民衆の監視が無い独裁政府であると民主主義では早期に取り除ける腐敗までもを見過ごすこととなる。この国は右から左まで偽物の民主主義が多い。ある民主主義を謳う政党を批判する民主主義を謳うこれまた別の政党の体制がトップダウン式で民主的ではなかったり・・・そこらへんはまた別の機会に。

民主主義者にして進歩主義者、自由主義者。今、政治的価値観を聞かれたら、こう答えるかもしれない。