揮手自茲去

もう一つの夢は心の中に。

君はいつも私の先にいる

 インプットが少なくて記事が書けないと今まで言訳を続けてきたが、いざ多くのインプットが濁流にように入ってくると、それはそれで頭の処理が追いつかず、記録するのが大変である。というのも私は春学期を終えて、三カ月だけお世話になった寮を後に、語学留学のため国外へ飛び立った。最後に英語でエッセイを書いたのが2013年の春まで遡れる状態では、秋学期に必修英語を再開することがとても叶わない。

 出国自体は実のところ初めてではない。記憶には無いのだが、私が三歳ぐらいの時に、両親とサイパン島に旅行へ行ったらしい。しかしそれが今日の私の形成に何らかの影響を与えたかというと否定的にならざるをえない。今回の8週間という滞在生活が未来の私の形成にどう関わってくるのか、この時点で大量の新鮮な情報に飲み込まれているので、行かなかった道の自分とは既に大分変っているのだろう。(こんな記事を書くこともなかった)

 今回は島ではなく、カナダという北米大陸に位置する国である。私は初めて島ではなく大陸という地に降りた。今まで島と島を移動することはあっても、決して大陸に行くことはなかった。遂に島人も卒業である。「私は初めて島を出て、大陸という大きな島に降り立った。ノースアメリカ大陸という大きな島は、私が住んでいた島が百個あっても勝てない広さである。」

 英語ができないので留学しているのだから、当然英語は話せない。少し位は出来るようになってから旅立つべきであるという意見は正しいが、少し位できる段階にすら至らないまま21年目を迎えてしまった。私の大学は集中治療室と呼ばれることがあるが、その英語教育の名門と言えど、私の症状は手遅れだったので、カナダの大学付属の語学学校で8週間生活するという集中治療を行うことにした。日本では治らないから北米に行って手術を受ける難病患者を思い出したが、最近その類の募金を耳にすることはなくなってしまった。

 自発的学習を行うことができない理性がダメなら、生存のための環境適応能力という本能の管轄に頼るしかない、そういうことで自分をカナダという異国に放り投げてみた訳である。機内では言葉が通じず、一人で入国手続きを書くためのペンを借りることすらできない有様で、どうなることかと思ったが、荷物受取を待っていると、一人の女子大生っぽい日本人が話しかけてきた。十数分前に彼女は色々な人に日本語で話しかけており、私の処には来なかったので解決したのかと思っていたが、そうでもなかったようだ。日本語でTwitterを見ている画面でも見えたのだろう、遂にお声が掛かった。空港内の無線LANの繋げ方が分からないので教えて下さいと頼まれ、指示すればいいのかと思い教えてみたが、ブラウザやsafariといった単語が通じなかったので、結局私が見せながら操作することになった。

 言葉の壁という不安自体は大きくなったが、言葉が通じなくても単身で乗り出す人が他にもいるのだなぁ、と思ったら多少彼女に勇気づけられた気がする。なお入国審査は私の英語は通じないので紙を見せろと言われて、これで幾つかの関門を無事に突破できるかと思えば、結局税関に送られたものの、こういう時に日本国籍であることが幸いしたのか、周りみたいに中身を開けられることはなく「食べ物ないよね」「ないよ」といった感じで通過することになった。

 シープログラムでは最低限でも幾らか同じ大学の友人がいるので、なるべく英語を使おうという気分にはなっていても、初日ぐらいは一緒に生活に必要な諸情報を模索し、日本語で共有していくのが普通だろう。しかし私は独り身で乗り込み、当然日本語以外での情報交換ができない人間なので初動に大分苦戦し、先ほどようやく水と食事にありつけた。

 自動販売機は正直に現実を語ってくれる、物価の高さを。水が2ドル、コーラが2ドル25セント。中国に負けたとはいえ世界第三位の経済大国である日本より何故物価が高いのかと思ったが、一人当たりの年間所得ランキングを見るとカナダは15位で、日本は27位である。合計では日本が高いものの、一人当たりの経済水準では明らかにカナダの方が豊かであり、質というものを強く感じた。

 今までは残業文化が語るように日本人は数で、物量戦で世界に勝ってきたのだ。そして21世紀、今度はそれによって日本は中国やインドに負けた。しかし反省することはなく、世の中は相変わらず残業、ブラック企業、有給消化についての悪しき労働文化が健在である。僕らの国も数ではなく質を見る時代ではあるが、そういう日は来るのだろうか。

 航空機の中で思っていたのはホームシックについてである。僕は小さい頃から青少年団体に参加しており、そこではよく宿泊行事があり、それに例年参加していた所為か、大学の寮に入ってからもホームシックにはかからず、てっきり僕は環境適応に強いタイプなのだと思っていた。しかし、それはよく考えると、帰ろうと思えば帰れる家が近くにあった、というのが大きかったのではないだろうか。

 寮生時代は度々実家に帰っており、二カ月一度も帰省しなかったということは今まで無かったかもしれない。しかし今回ばかりは気軽に帰ることができない、そういう環境に入って初めて、ホームシックになる環境的な条件を満たしたのであり、僕が本当に異郷に強いのか試される。多分ダメな気がする(ぁ

 この大学は総合大学的、ではあるものの正確には少し異なり、カレッジ制という、要は大学と寮が一緒になった「カレッジ」という教育単位の集合体である。オックスフォードなどがこれであり、寝る建物と学ぶ建物が一緒か隣接しており、リベラルアーツカレッジとは違った形で教員たちと密接な毎日を過ごすことになる。ハリーポッターに出てくる学校みたいなものをイメージすればよいだろう。尤もヨーク大学は寮内に食べるところはないし、厳かな衣装を着る伝統もないので、あれを体験したいならイギリスのOxfordかCambridge、Durhamに行くしかないが。

 また別のキャンパスにはアメリカのリベラルアーツカレッジを意識した森に囲まれた小規模カレッジがあるらしく、この大学ではカレッジ制というイギリスの大学文化と、アメリカ的なリベラルアーツカレッジの両方を導入しているわけであり、英米の良いところを両方頂く野心があるのだろう。

 そんな感じの大規模大学であり、学生もその中に住んでいるので、とにかく生活施設が私の大学よりも充実している。ショッピングモールのような形で飲食店が多くあるし、映画館があったことには驚きだ、周辺住民も使っているのだろうか。学部生が5万弱、院生が6千人とあれば、大学が一つの街となる。

 個人的な妄想話であるが、地方創生が叫ばれる中、どのように地方を復興させるかという点について、私は大学や研究所を集団で設置して、大学街みたいなものを作ればよいと考えている。村の伝統やそういうものを引き継ぐ要員にはならないだろうが、名前を残すことはできるし、年代も若いまま維持されるので問題ない。

 長くなってしまったので記事を分割することにする。