揮手自茲去

もう一つの夢は心の中に。

天上の意志と私の選択

 ナザレのイエスが神の子であるという話だけでも面白いのに、神の子と救いの主である神が同一であるという三位一体の教義を飲み込めず、更には彼が蘇生したならともかく復活したのは流石に信じられないと未だにキリスト教の信仰を獲得するには至っていない。

 しかし最近聖霊の働きとやらは本当に存在するのではないかと、少なくとも神様と聖霊は似たようなものではないかと昨今の自分の周りを見渡す限り思うことが多い。時同じくして神様はサイコロを振らないと最後まで確率解釈論を拒んだ有名な物理学者が遺した概念を某国の人々は実証することに成功した。

 仮に神がサイコロを振らないというのであれば、一見ランダムに振り分けられた諸々のプレースメントは見えざる方の意志が反映されているのだろうか。

あなたは私たちが求めたことを、何一つ与えなかった。しかし私たちが必要とした神の慈しみは、主よ、あなたはすべてお与えになった。(無名戦士の碑文)

 逆に私が自分で選択したと思っていたこと、時に衝動的に行ってしまった諸々の言動も所詮は神の決めたレールに沿って走っているだけなのかと自棄になる。詩篇の一句に記されている言葉が脳裏に浮かぶ、生涯を歩み始める前に私の日々は既に神の書で定められていたと。しかし、そう考えてばかりでは主体である私の意志が死んでしまう、せめて私の心のなかだけは私のものだと信じたい。色恋話の比喩で誰かが心のなかに入り込み住んでしまうという表現があるが、たいてい勝手に本人が人形を作って置いているだけである。ただ一度作った人形は安易に取り外せないから苦労するのであるが・・・

 留学書類の不備によりこの地で学徒としての一生を全うすることになったのも現実から逃避するなという考えが反映されたのだろうかと、主に自分の不注意によるものを神の意志によるものと(神のせい)理由付けることで精神を維持している愚劣な自分は果たして赦されるのだろうか(誰に)

 キリストの受難を考えれば私の事案は些細なものと考えるか、キリストと同じように受難を受けている私はひょっとするとキリストなのではないかと錯覚するか、このブログを読んでいる人々にキリスト者がいないことを祈ろう。