揮手自茲去

もう一つの夢は心の中に。

内田義彦「読書と社会科学」メモ

 聴き上手という見出しが目に入り、心が抉られつつも借りてしまった一冊。色々思っていることはあるが即座に書けないのが僕であり、とりあえず付箋的なノリで引用してみる(気が向いたらコメントが入ります)

 いったい、お互い生きているもの同士、平素しゃべっていることを、ふだんはあまり大事に聴いていないんじゃないでしょうか。このところ親しい友人をたてつづけに亡くして悲しい思いを繰り返してきましたけれど、一番つらいのは、ああ、あの時あの人はひょっこりこういうことを言ったなとか、あそこで何か口ごもって、賛成はしたものの納得がゆかぬような顔をしたとか、生前は意識にのぼらなかったようないろんな言葉や表情の切れはしが、生々しく心に浮かんできて、これはつらいんです。

 ハッキリとしていて、しかし、そこに含みこまれている意味を確かめるすべがもうない言葉や表情の断片断片。その言葉、その人の全存在にかかわることいまや明確と思われるその言葉を、なぜ聴き逃してしまったか。その時ならば容易に確かめ得たその時に。

 じつは、聞いてはいたんです、その時にも。でなきゃ、あの時こう言ったのはどういう意味だろうとか、あるいは表情ですね、あの時口ごもったけれど何をいいたかったんだろうかとか、言葉や表情が浮かび出てくるわけがありませんから。見たり聞いたりはしていたんだけれど、せっかく見たり聞いたりした大事なことを大事にしないで、ふっと流しちゃったということをいまになって思い知らされる。

 私が死んでも、そう思って下さる人もあるわけですね。それで思うんですが、人間は死ぬと、特別に偉い人でなくってお互い普通の人間でも、死ということそれ自体によって、一つの、それだけでも大切な「後世への遺物」を残す。人が死んだ後、お通夜やお葬式の時だけではなく、生きている時も、こういうふうに大事に聴け。あるいはむしろ、大事に聴くように大事に人に接しなさい、ということです。

(70-71頁)