揮手自茲去

もう一つの夢は心の中に。

私は知りたい。喪うことへの恐ろしさより、知りたいという想いの方が強いから。

「人は知らなかったことを知ることで、そこに昔から在り続けていた幻を消してしまう、永遠に。幼いころ、この広い世界の仕組みを補うために 頭の中から生み出した想像も、知識を得るに従い上書きされていく。そこには妖精や妖怪が確かに居たが消えてしまった、いや、知恵によって消されてしまったのだ。」

「知ることは自らの作品を壊して他者の作品に置き換える行為である。その作品は自分のより優れていることが多いが、知ることに頼り過ぎていればやがて、最初は知っていたはずの作り方を忘れてしまう。」

  何かを知ることによって永久に喪われてしまうものがある。言葉を知るまでの世界の見方、文字を知るまでの言語の見方、数字を知るまでの物の見方、そして知識を得る前に、自らの手で考え出した未知の正体の想像。例えば生物がどのように増えるのかという疑問を小さい頃は神秘的に感じていたが、二次性徴を迎える頃には何となくそれが生々しい現実、身近な出来事であることに気づいてしまう。

 科学を知らなかった古代の人々は想像力を以て、哲学や神話という形で創り出すことによって自然現象を自らの世界の仕組みに組み込み、補うことができた。一見、知るという行為が非正義、非道徳であると思っている人はいないように思われるが、必ずしも知るという行為が全肯定されることは少ない。いつの時代にも真理に近づくことによって今が壊れてしまうなら知ることをやめてしまいたいと願う人々もいる。安定を求めるなら当然である。科学は人間が考え出し古来より子孫に語り継いできた神話体系を壊してしまう。人間の想像が事実に負けるのは仕方がないことだが、負け続けていてはやがて人間の精神的支柱の役割を担っていた根幹までもが崩れてしまい、信じる物を失った人々が世界を彷徨うことになる。残念なことにまだ人間は絶対的な物を失っても歩き続けられる人は滅多にいない。キリスト教は科学との対立の中でうまく科学文明に適応することができたが、科学の浸透とともに瞬く間に滅ぼされてしまった宗教も無数にあることだろう、宗教は共存することができるのか、若しくは両者の潰し合いを再び見ることになるか。

 知るという行為は前に進む、正確には真理に近づくことである。脱成長とか反知性主義という言葉があるが、僕は進歩主義者であり続けたい。前進を止めることはすなわち停滞の始まりである。前進をしてもしなくてもやがて人は滅びゆく種である。ならばここで止まって死に行くのを待つより、前進をして少しでも長生きできる秘訣を見つけていきたい。なんせまだ人類は地球の周りから抜け出す段階ですらない。地球では多すぎる人口も、やがて分散する時代が来れば忽ち人手が足りなくなるだろう、楽観的かもしれないが。

 

 さて、ここまでは戯言でした。

 

 豊かな知識があれば高度な思考が可能になると考えていた時期があるが、最近そうでもないような気がしている。勿論知識や知識を獲得する行為を否定しているわけではない。当方、社会科学入試で本学に入学したこともあり、英語ができなかった分なおさら社会科学、人文科学で得点を確保しているわけだから、これら分野に関する知識は学内平均より高めであると思っていた。しかし本格的に所謂文系の授業を受け始めて感じたことが、前にも言ったような気がするが私は批判的なコメントを中々書けないのである。精神分析がトピックの時にマトリックスの映画を見ていたが、僕はただ純粋にその映画を楽しむことしかできなかった。批判的思考が足りないだけの話ではないかとも思えるが、考えては見るものの肝心なところに気づけないことが多い。今後の訓練でどうにかなるものなのか。内容を理解するのは容易い、しかし書かれてないことを見つけるのがどうにも苦手である(見つけさえすれば理解するのは難しくない)。理解しているように思えて、実は内容が理解できていないから見つけられないという可能性も否定はできない。理解していないものをしたつもりになっていると痛い目に合うのは知られていることだ。知識にだけ頼っている人々をよく心の中で笑っていたものだが、もしかすると思考力の低さを知識でカバーしようとしていたのは僕自身のことだったのかもしれない、反省しなきゃ、どうやって?

 

 これは知識というより知能の話であるが、この前受けてきたMENSAの結果が返ってきた。テストを受けた感触から無理だとは思っていたが(微かな希望はあったことは否定しない)、どうやら上位2%の知能指数は有していなかったようである。不合格になってから言うと言い訳にしか過ぎないのだが、回答時間の短さ(45問を20分)から察するに彼らの求める知能指数で大きな比重を占めているのは頭の回転の速さ、すなわち処理速度なのではないか、と試験を受け終えて思った。確かに考えること自体は苦手ではないが、早く考えるということは昔から苦手である。時間制限のある計算問題を解いていた時も急がないとまず終わらない。それで急ぎすぎると変なミスを連発するのである。しかし一万円は高かったにせよ、自分の限界を他者によって直接思い知らされるという経験が今まで少なかったので、試験は無駄ではなかっただろう。今まで人間が担ってきた処理はコンピューターに委託されることが多い時代となってきたから昔よりは処理能力が低い人間も生きやすいのかもしれない(勿論機械にできることは限られているので、今後も処理能力の高い人間が重宝されることに変わりはないが)。ゆっくりできる天職を見つけたいものだ。