揮手自茲去

もう一つの夢は心の中に。

進路未定

助言と称して無責任に人様の人生を狂わせてはいけない。お前が知恵の実だと思って授けているものは神経を蝕む毒林檎かもしれないし、仮にそれが本物だとしても、禁断の果実を与えたがばかりに、彼らは楽園から追放されかねないのだ。

 時の気まぐれで物事を安易に決めていく私と比べて周りの友人知人達は、これから自分が歩んでいく道についてしっかり悩み、しっかり考えて人生の選択をしており、私なんかよりよっぽど物事の見通しが鮮明で先見性を持っている。過去に彼らが私に話してくれた一つ一つの言葉を省みると、時に彼らに浅ましい助言をしてしまった自分に恥じらいを感じることが多い。この人はあまり情報を持っていないのではないかと色々情報を提供してみることが多かったが、それは却って混乱を招きかねない。そして後々よく調べてみると、初めにその人がぼんやりと考えていたことが既に一番最適解に近かったということが判明した際には、某国の政治家に贈られた「時間の浪費者にして空間の占有者」という称号が自分に似つかわしいとさえ思った。

 賢明な人は私の愚かしい提案など真に受けず自身の選択を貫くが、もしも私の言動が原因で誰かの人生を狂わせてしまうことがないかと最近では不安を抱く。以前、私と一緒にグループワークを行った同期では最も優秀な方の一人とされている歴史学専攻の方が、その発表で北海道の移民史を扱ったことを機に西洋史専攻から日本史専攻に変えたことを聞き、私は余計なことをしてしまったのではと思ってしまった。なぜなら西洋の移民・難民について扱う風潮だった初期のグループワークで私が突発的に提案して押し通したのが北海道というフィールドであったからである。

 思えば僕が今歩いている道は僕自身が選択したというより、僕が目指していた先人達が選んだ道を後追いしているだけに過ぎないのではないか。僕の道は昔に憧れていた人々が落としていった夢や志で舗装されている。中学時代、周囲から大人びた思考を持っていると言われていた初恋の相手は大の国語好きで、文化祭で小説や美しい詩を書き残す文学少女であった。それをきっかけに僕も国語で何かを表現することを始める。好きな人間の真似事をする傾向があることは否めないが、それまで成績の良くなかった国語は数年後、それを頼りに大学の入試を突破できる程度にまで向上した。尤もその人とは色々あって今では絶縁状態だけれども、今日の僕を構成している重要な人物であることに変わりはない。

 あの人達が行きたくても行けなかった、行かなかった道を今日僕が歩くことを許されているとすれば何か使命があるのかもしれないと時折思うが実際どうなんだろうね。大好きだった人達の叶わなかった夢を拾い集めて作られたのが今日の僕だとしたらあまり期待に応えられていない気もする。

 

断捨離と学問

 何かを学ぶのに学部生という四年間は余りにも短すぎる、ある人は言った。自然科学の世界では今や修士まで行くことは殆ど当たり前の状況となりつつあり、四年という限られた時間ではもはや現代の学問の最先端に追い付くことは困難な時代となっている。況してや前半は必ずしも専門科目だけを学ぶわけではないのだから、実質的にはもっと少なめの年数で年々積み上がっていく学問の山を、よく先生方は学問を巨人に喩えて巨人の肩から世界を見渡せと言われるが、終わりなき成長期の下で永遠と伸び続ける巨人の脚をよじ登り続けるのは余程の根気が無ければ諦めてしまうことだろう。

 そして人は本のみに生きるにあらず。学問をするため大学に入ったという建前を多く人は揃えて口にするが、実際にはサークルやアルバイト、交際といった諸々の活動を行い各々の社会関係資本文化資本、経済資本に磨きを掛けている。それらは学徒の道に不要であると述べる者もいるが、人脈の構築や視野の広さを支え維持しているのはかくなる資本であり、それらなくして学問の道で成功するのも些か困難が伴うように見えるから二択を迫るような話にしてはならない。

 さて本題に入ろう。筆者はこの度、歴史学と数学の二重専攻で本学を卒業することは諦め、色々な思惑がありながらも社会学専攻に転進している最中である。受験生時代に政経や社会と言った名前を冠する学部を志望して散った身であるから、本来の場所に戻ってきたと考えることもできるがそれはさておき、学部だけで最先端に中々到達できないのは何も自然科学だけの話ではなく社会科学・人文科学にも言える話である。それらは言語学などは例外として体系が顕著に見えるものではないから、つまみ食いばかりしていればどうにでもなると考えている者が散見するものの、方法論や思想、学際的発想を詰めていったらキリが無いということに最近私自身も気付いてきた。

 社会学は大きく分けて質的と計量的の2つの流派に分かれるが、後者の場合にはデータを収集して解析するという学問の性質上、統計学の素養が不可欠である。そして統計学は既知の通り数学的基礎付けにより成立している学問であり、統計学の理論を一から理解するとなれば確率論(これを理解するためには大学の微分積分学が必要)と線形代数学が前提知識となる。私も不勉強ながら最初は前者だけで十分かと思っており(先日まで数学専攻を自称していたのに実は確率統計の授業を一年生の秋以降取っていないのである!)、日頃お世話になっている数学の教授から話を聞いて最小二乗法という言葉を思い出しながら見識を改めることができた。後日、回帰分析の教科書を確認したら少なくとも行列式の知識は必要であるなと直感的に感じることができたので先生の言われていることは正しいのだろう。チラッと見た感想なので具体的にどう使うかと言われても残念ながら答えられない。しかし時間は有限である。数学教授の言われる通りに履修計画を組み立ててしまっては、社会学の為に統計学を学ぶはずが気付いたら統計学を学ぶ為に数学徒に変わり果てていたという事態になりかねない。これを人は本末転倒と名付ける。数学みたいな体系的な学問は若いうちに、身近に先生がいる環境であるうちに学ぶべき、皆はそう言われる、確かにそうである。しかし望んでいたものと恐らく何か違うのである。

 さて道具を理解するために道具に飲み込まれる悲劇は回避するとして、いっそのこと統計学の使用者に徹して一切の基礎付けを無視することは妥当であるか。私はそこまで吹っ切れるのは就職するならまだしも、学者を目指すつもりなら少々マズいような気がしている。幾らコンピュータが発達しても使うのは人間であるから背景を知らないで用いると誤用が生じる可能性があったり…というのが定番の批判であろうが、もう一つの点を述べてみる。今の時代は巨大科学という研究者のチームワークを必要とした研究が多くなりつつあり一人の天才ではなく集団が結果を出していく風潮が存在している。また現代社会は多くの情報と人間が混じった魑魅魍魎の世界であり、巷では社会的ネットワークやビッグデータ解析という言葉が賑わっており、対象は今や一人で処理できる相手ではないのかもしれない。来る未知の世界を分析する為には自分で道具を作るノウハウも必要ではないかと思うが、上記の通りその為には人間から吸血鬼に変わるような一種の変化が必要となり重大な決意を要する。ということで元からの統計学者と協力していこうということになるわけだが、その時に基礎理論という共通語が無いとコミュニケーションが大変なのではないかというのが私の推測。ごめんなさい、これ以上論を展開できないので各自で上記の可能性をシミュレーションしてみて下さい。

   結局のところ、統計学をどの程度学べば良いのだろうか。統計学者になる気がなければ決して統計の専門家と同じ水準に並ぶ必要は無いのであるが、彼らと円滑なコミュニケーションが取れる程度の共通基盤を持っていた方が将来的にチームを組む際に効率的な研究を行えることは確かである。ということで数学科二年次程度の数学と統計の知識があれば十分ではないかと考える次第。大学卒業した後に学ぶのは大変そうだしね…

 こんな感じで社会学と其の周りに関して素人なりに色々調べて読んで話して聞いて思ったことを連ねていき、限られた時間の中で社会学に関連する諸分野をどの程度まで学べば、社会学専攻であるということを形骸化させずに、健全でバランスの良い学部生活を過ごせるか幾つかに分けて考察していくことにする。これを読んで計量は闇が深そうだから辞めとこうと考えた貴方、実は質的の方がより深い何かが潜んでいるかもしれない…?

備忘録

社会学 vs 統計学 done

社会学 vs 数学

社会学 vs 哲学・思想

社会学 vs 歴史学

社会学 vs カルスタ

方法論 vs 下位分野

社会学と…

内田義彦「読書と社会科学」メモ

 聴き上手という見出しが目に入り、心が抉られつつも借りてしまった一冊。色々思っていることはあるが即座に書けないのが僕であり、とりあえず付箋的なノリで引用してみる(気が向いたらコメントが入ります)

 いったい、お互い生きているもの同士、平素しゃべっていることを、ふだんはあまり大事に聴いていないんじゃないでしょうか。このところ親しい友人をたてつづけに亡くして悲しい思いを繰り返してきましたけれど、一番つらいのは、ああ、あの時あの人はひょっこりこういうことを言ったなとか、あそこで何か口ごもって、賛成はしたものの納得がゆかぬような顔をしたとか、生前は意識にのぼらなかったようないろんな言葉や表情の切れはしが、生々しく心に浮かんできて、これはつらいんです。

 ハッキリとしていて、しかし、そこに含みこまれている意味を確かめるすべがもうない言葉や表情の断片断片。その言葉、その人の全存在にかかわることいまや明確と思われるその言葉を、なぜ聴き逃してしまったか。その時ならば容易に確かめ得たその時に。

 じつは、聞いてはいたんです、その時にも。でなきゃ、あの時こう言ったのはどういう意味だろうとか、あるいは表情ですね、あの時口ごもったけれど何をいいたかったんだろうかとか、言葉や表情が浮かび出てくるわけがありませんから。見たり聞いたりはしていたんだけれど、せっかく見たり聞いたりした大事なことを大事にしないで、ふっと流しちゃったということをいまになって思い知らされる。

 私が死んでも、そう思って下さる人もあるわけですね。それで思うんですが、人間は死ぬと、特別に偉い人でなくってお互い普通の人間でも、死ということそれ自体によって、一つの、それだけでも大切な「後世への遺物」を残す。人が死んだ後、お通夜やお葬式の時だけではなく、生きている時も、こういうふうに大事に聴け。あるいはむしろ、大事に聴くように大事に人に接しなさい、ということです。

(70-71頁)

 

 

天上の意志と私の選択

 ナザレのイエスが神の子であるという話だけでも面白いのに、神の子と救いの主である神が同一であるという三位一体の教義を飲み込めず、更には彼が蘇生したならともかく復活したのは流石に信じられないと未だにキリスト教の信仰を獲得するには至っていない。

 しかし最近聖霊の働きとやらは本当に存在するのではないかと、少なくとも神様と聖霊は似たようなものではないかと昨今の自分の周りを見渡す限り思うことが多い。時同じくして神様はサイコロを振らないと最後まで確率解釈論を拒んだ有名な物理学者が遺した概念を某国の人々は実証することに成功した。

 仮に神がサイコロを振らないというのであれば、一見ランダムに振り分けられた諸々のプレースメントは見えざる方の意志が反映されているのだろうか。

あなたは私たちが求めたことを、何一つ与えなかった。しかし私たちが必要とした神の慈しみは、主よ、あなたはすべてお与えになった。(無名戦士の碑文)

 逆に私が自分で選択したと思っていたこと、時に衝動的に行ってしまった諸々の言動も所詮は神の決めたレールに沿って走っているだけなのかと自棄になる。詩篇の一句に記されている言葉が脳裏に浮かぶ、生涯を歩み始める前に私の日々は既に神の書で定められていたと。しかし、そう考えてばかりでは主体である私の意志が死んでしまう、せめて私の心のなかだけは私のものだと信じたい。色恋話の比喩で誰かが心のなかに入り込み住んでしまうという表現があるが、たいてい勝手に本人が人形を作って置いているだけである。ただ一度作った人形は安易に取り外せないから苦労するのであるが・・・

 留学書類の不備によりこの地で学徒としての一生を全うすることになったのも現実から逃避するなという考えが反映されたのだろうかと、主に自分の不注意によるものを神の意志によるものと(神のせい)理由付けることで精神を維持している愚劣な自分は果たして赦されるのだろうか(誰に)

 キリストの受難を考えれば私の事案は些細なものと考えるか、キリストと同じように受難を受けている私はひょっとするとキリストなのではないかと錯覚するか、このブログを読んでいる人々にキリスト者がいないことを祈ろう。

若き日の悩み

Twitterの方では連投をやめようと思い、あちらで落とし過ぎた呟きを切って拾って、ここに貼り付けて繋げる。特にお題があるわけでもない。

広く浅く学びを続けるよりは何か成長可能な特性を一つでも見つけて、それを深め伸ばしていく方が個性の成長と安定的な自己の構築へ確実に貢献できるのかもしれない。探し続ける行為なくして探し物が見つかるわけはないが、探し続けることばかり追い求めても、集めた石は磨かれるまで単なる石のままだ。

 これは僕のこと。いい加減に何かに専念しなくてはならない。専門を持たない上級学年の学徒と一体何が話し合えるだろうか。次は進路に悩む人間たちを眺めながら抱いた気持ち。

 ふと気付けば知っている誰かが既に歩いた道を自分が後追いしているような気分になり、他人の影響力を自己から排除したいという衝動から、歩こうとしている道を変えなければならないという迫真に襲われることもあるだろう。

 しかし、人という学べる生き物が周りの人間たちの影響を受けながら成長することは紛れも無い事実なのだから、最初の道ぐらい似ていても良いではないか。最後までその道を歩き続けたら、先人の複製物になってしまうかもしれないが、途中の道を共有することまで否定することはない。

 違う目標を持ちながら先人の道を辿れば、やがては分かれ道に出会い、変更が必要とされる場面は自ずと訪れる。道の在り方を問うことが先ではなく、誰も知らない目的地を決めれば、探し辿る進路に既視感があっても誰かの繰り返しになることはない。高速道路を使う人達も各々が異なる目的地を持っている。

 目標の見つかってない人間が年下に対して威勢の良いことを言っている。結果を伴わない言葉には力が無いと知りながら減らず口を叩く老害が一匹校庭で騒いでいるのでした、ちゃんちゃん。

 

THE ROAD NOT TAKEN

Robert Frost

Two roads diverged in yellow wood,
And sorry I could not travel both
And be one traveler, long I stood
And looked down one as far as I could
To where it bent in the undergrowth;

Then took the other, as just as fair,
And having perhaps the better claim,
Because it was grassy and wanted wear;
Though as for that, the passing there
Had worn them really about the same,

And both that morning equally lay
In leaves no step had trodden black.
Oh, I kept the first for another day!
Yet knowing how way leads on to way,
I boubted if I should ever come back.

I shall be telling this with a sigh
Somewhere ages and ages hence;
Two roads diverged in a wood, and I ---
I took the one less traveled by,
And that has made all the difference.

 

塗って塗られてまた塗って

 国政で与党が勝つと一つの民意を掲げ、次に県で現知事派が勝つと彼らも民意を掲げる、そして沖縄各地で行われる選挙の度に勝った側が民意を名乗る。しかし次の選挙ではまた引っくり返されるなど民意の代表性は二転三転しており、今や彼ら両方の民意という言葉には安定性諸共その正統性も意味も失われつつある。あとどれだけオセロゲームは続くのだろうか。YesかNoか問われる事柄に関しては、どちらも正しくないということは無いと思うので、何れか一方が必ず正しい民意のはずだが東京より眺めている私には答えがわからない…

ブルデュー「遺産相続者たち」に関するメモ

未完:起き次第、メモの内容を書きます。暫定的に引用だけ。

エキゾチック傾向

自己の適性や能力について大きな自信を持っている彼らは、文化的関心が多様なせいで、現実の、あるいは見せかけの折衷主義や、多少なりとも実りのあるディレッタント精神を示すが、他の学生たちは<大学>により強く依存する傾向がある。社会学専攻の学生に、自国の社会、第三世界諸国、あるいは民族学のいずれを研究したいかと尋ねてみると出身階層の高い学生ほど「エキゾチック」なテーマやフィールドを選択する傾向が強い。同様に、最も恵まれた学生たちが流行の思想に惹きつけられるのは、彼らがその時点までずっと保護されてきたせいで、現実原則よりも快楽原則に従うことを望む素地を与えられており、知的異国趣味や明白な熱意が、ブルジョワ的経験を言葉に出すことでそれを精算するための象徴的な手段、すなわち見せびらかしにはなるが重大な結果はもたらさない手段となっているからではあるまいか?そしてこうした知的メカニズムが形成されるためには、自由で無償の選択ができるような経済的・社会的条件が、それも極めて長期にわたって、与えられることが必要なのではあるまいか?

経験と学習の順番

すべての教育、とりわけ文化教育(自然科学でさえも)は、教養ある階級の世襲財産を構成する一群の知識、ノウハウ、そして特に表現法を、暗黙のうちに前提としている。不穏当な部分を除去した当たり障りのない教育である古典中等教育は、父親の蔵書によって奨励され権威づけられる読書、自分では選ぶ必要のない選り抜かれた演劇や映画、文化的巡礼の形をとる旅行、すでに事に通じている人々にしか通じない仄めかしの会話など、第一段階のさまざまな経験から成る宝庫全体を既得物として前提した上で、第二段階の意味を伝達するのだ。そこからは普遍性という価値観で覆われているがゆえに万人が参加しなければならない、あの特権者たちのゲームにおける根本的な不平等が結果として生じるのではあるまいか?
恵まれていない階級の子弟が、学校による勉強の手ほどきを小手先の方便や教師用言説を身につけるための学習作業としてとらえることが多いのは、まさに彼らにとっては直接的経験よりも、学問的省察が先行しなければならないからではないのか?彼らは自分の居住地域を離れずにパルテノン神殿の建築様式を詳細に学習しなければならないし、勉学期間の全体を通じてずっと、変わらぬ強いられた不誠実さをもって、わけのわからないことがら、古典における情念の婉曲表現、良い趣味の限りなくこまごまとしたニュアンスなどについて論じなければならない。

勉強とは

勉強することは、創造することではなく、自分を創ることである。それは文化を創造することではなく、いわんや新しい文化を創造することでもなく、最善の場合でも文化の創造者として、大半の場合には他人によって作られた文化に精通している利用者もしくは伝達者として、つまり教師や専門家として、自分を創ることである。より一般的には、勉強することは生産することではなく、何かを生産できるものとして自分を生産することなのである。